忠臣蔵の数合わせ(05.08.10)

47の数字:
 忠臣蔵について、いろは四十七文字と、討ち入った人間の数が、ぴたりと合う。(しかも、実説の赤穂浪士の討ち入りから数えて、ちょう ど四十七年目の寛延元年(1748年)に「仮名手本忠臣蔵」が作られている。)これは単なる偶然だろうか。討ち入りを指揮した大石内蔵助 が、「いろは」に合わせて人数をしぼったのだろうか。それとも、偶然そうなったのか。とにかく、偶然か作為か、忠臣蔵でなければ味わえない「四十七」という数字である。

 仮名手本忠臣蔵の作者である武田出雲、三好松洛、及び並木宗輔(1748)は、討ち入りした義士の数が47人だったから「仮名手本(=いろは47文字)忠臣蔵」の外題を選んだので、もし人数が別の数だったら他の題目になったであろう。これは明らかに作者たちの善意の作意である 。

 この狂言が討ち入り47年後に発表されたのも、作者たちの作意であった可能性も捨て切れない。

46の数字:
 赤穂浪士たちが1年9か月の苦節の後、めでたく本懐をとげた元禄15年12月15日午前4時という日時が、後日切腹する46人(討ち入り後脱出した寺坂吉右衛門を除く)を暗示している。

 ちなみに、講談などでは、討ち入りの日付が12月14日と言われている。しかし、当時は朝の明け六つの鐘から翌日の明け六つまでを1日としていた。従って、12月15日の午前4時頃、つまり寅の刻は明け六つまで未だ時間があり、当時としては12月14日に討ち入ったということになるようだ。

 ところで、なぜ討ち入りの正規の日付と日時が切腹した46人を表すかといえば、15+12+15+4=46で、見事に一致するのである。



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